3月11日で一年が経過しました。いま、一年前の私を思い出しています。震災当日は、兵庫県看護協会のまさに災害検討委員会の真っ最中でした。数年前に建設された看護協会の5階ですら相当揺れ、どこが震源地?ってすぐに携帯電話のTVをつけたのを覚えています。TVには次々と映し出される現実とは思いがたい風景。
翌日は、土曜日でした。自宅から私の研究所の山本所長と電話してWebページをリニューアルし、多くの人に災害看護に関する知識を知っていただけるようしました。 そんななかでもtwitterを通じて被災地から救援を望む切実な記述が入ってきました。「いまマンションの3階にいます、津波が迫っています。助けて!」と書いてあり、具体的住所まで書かれていました。そんなツイートをたくさん見ました。見つけ次第、その市のホームページのお問い合わせ欄にコピー&ペーストしました。でも今考えたら自治体自体が被災していてサーバも使えなかったんですよね、きっと。 3月14日月曜日になり、具体的に災害支援に行く話が出始めました。兵庫県看護協会災害支援ナースとしていくつもりで準備していたところ15日朝に2号機も水素爆発が。さすがに腰が引け、行ったら命が危ないかもしれないと思いました。翌日16日出発するはずでしたが、これは見送ることとしました。わたしには家族もいるわけで本当に悩みました。でも一方で「じゃあだれが被災地の人を看護するの?」という気持ちも大きくありました。夫は私にいいました。「危険を避けられるようにして行くべきで、さらに、行かねばならない理由をきちんと僕や息子に説明できるなら行きなさい」と。友人は言いました「初美ちゃんはそうはいってもきっと行くんだろうね。気をつけるのよ。自分の命は自分で守るのよ」と。尊敬する人は「行く勇気が怖いと思う気持ちに勝るのなら行きなさい、そうでないならやめなさい」と。わたしはこのとき思いました。この未曾有の大災害に災害看護支援にいけないなら「災害看護」領域の教育研究をするのをやめようと。その頃、兵庫県看護協会では、大森会長が兵庫県と連携した活動つまり関西広域連合のなかで活動できないか模索していました。そしてわたしに最初の派遣者として被災地に行ってくれないかと言ってくださいました。そうして3月18日に出発して被災地に入ったのです。その頃のことを今しみじみ思い出しています。
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